奇術師
奇術を行う人。
手品師
手品をしてみせる芸人。
香具師
縁日など人の集まる所に露店を出し、興行や物売りを業としている人。露天商の場所の割り当てや、世話をする人もいう。
曲芸
常人にはできないような離れ業。また、各種の道具や鳥獣などを意のままに動かす芸。軽業(かるわざ)。アクロバット。「―師」
詐欺
(1)巧みにいつわって金品をだまし取ったり、相手に損害を与えたりすること。あざむくこと。ペテン。「―にひっかかる」「―を働く」「―師」 (2)〔法〕 他人をあざむいて錯誤に陥らせる行為。

 以下の諸章は、初學者が定型的な仕方で設問を立ててカードを吟味する際に、大アルカナのカードの各々について、より深いレヴェルの意味との接触を可能にするやうな、樣々の觀念の結びつきを喚起させるべく意圖されてゐる。傳統的に定説となつてゐる解釋は、私自身がそれに同意できない場合にも、歴史的興味といふ點から記載しておいた。"逆位置"つまり定型的なシャッフルによつてカードがさかさまに現れる場合の解釋もまた掲げておいたが、私自身は逆のカードが必ずしも逆の意味を持つとは考へてゐない。私の解釋では、カードはさかさまにならぬやうにシャッフルされるべきなのだ。(129頁參照)

the juggler on tarot card

 大アルカナの第一のカード、"奇術師"はあるがままの「人閒」をあらはしてゐる。それはテーブルの傍らに立つ山師もしくは奇術師の像であり、机上には彼の商賣道具のありつたけがひろげられてゐる。指貫き、さいころ、カップ、硬貨、抜き身のナイフとその鞘、である。奇術師は左手に棒を、右手に硬貨を持つてをり、一説では今まさに硬貨を消してみせようとしてゐるのだといふ。(圖44)

 このイメージは通常の意識レヴェルにある人閒の存在状態についての、驚くほど豐かな表現である。「人閒」は、見えない觀客に向かつて演技してゐる奇妙な服装の人物として示される。巧妙な知略によつて、觀客は、すなはちこのカードを目にするものは誰でも、そこに見てゐるものを樂しみ興味を唆られ、この絵の人物と自己同一化することで、「萬人であるひとりの人閒」たる奇術師となるのである。煎じつめれば、このカードは「錯亂から錯亂へと」異なつた役柄を演じながら、彼自身の自己同一性をほとんどあるひは全く持たない、「人閒」といふものについての解釋なのである。彼は目の前のテーブルの 上の埒もない品々で、觀客を樂しませてゐるか、あるひは單に暇つぶしをしてゐるらしいのだが、これらの品々は實を言へぱ、小アルカナの四大象徴の素朴な形態なのである。硬貨とさいころは、ペンタクルの粗野で祕密めかした形態、ナイフは劍を、カップあるひは 指貫きは聖餐杯を、左手に持つ棒は錫杖を表してゐる。(圖29)その言外の意味は、奇術師はこれらの品々の偉大な潜在力に氣づいてをらず、それらを單に自分の氣晴らしか、 他人を樂しませるためにのみ使つてゐるといふことである。ちやうど凡庸な人閒が彼をとりまく人生の祕密に氣づかないで、それを當たり前のことと考へてゐるやうに。彼のもつ安ぴかの玩具の偉大な潜在力を利用することもなく、目前の品々を工夫してみようともせず、それらを自分の氣散じだけに使ふことに安んじてゐるのだ。興味深いのは硬貨を持つ手が 地面を指してゐる點である。一方この硬貨の原型であるペンタクルの完全な表現である聖餅は、高く上方に掲げられることが最もふさはしいものである。後世のタロット註釋者たちは、これらの「玩具」の深い意味を見失ひ、それを常に小アルカナの四つの象徴群そのもので 置き換へてしまつてをり、その結果このカードの全體的な力を減殺してしまつたやうである。その意味は明らかだ。奇術師は彼の鞄から取り出した安ぴか玩具の潜在カに氣 づいてゐない。それらを小アルカナの一組の象徴群そのものとして描寫するいかなるカードも、カードの暗黙の意味を轉倒させてしまつてゐるのだ。圓は永遠の象徴であり(圖49)精神世界の象徴であり、このカードでは下方に把持されてゐる。萬人の姿である奇術師の持つ棒に圖像化される直線ないし十字形は物質世界の象徴であり、このカードではそれは本來精神的な諸力にこそふさはしい場所である上方に把持されてゐる。この二つの基本的象徴が暗示するのは、「人閒」が事物の自然な秩序を轉倒させてゐるといふ事である。彼の氣まぐれな表情から判斷するに、彼はより良いものを何も知らぬが故にさうしてゐるのである。

 カード全體はテーブルの稜線によつて二つの主要部に區切られてゐる。上半部は男の頭部と胴體を含み、下半部は脚、テーブル、地面を含んでゐる。この二分割は天と地の閒の分割に對應するものである。上半部は人閒の天上的本性を表象してゐる。この上半部に奇術師の奇妙な身振りがみられる。片方の手で天を指し、もう片方で地を指してゐる。この姿勢は全體にヘブライ語の第一文字アレフの形態を反映してゐる。(圖48)したがつてこの身振りは、この第一のカードの初發の力を強調するものであり、人閒の天上的側面はその本性からして精神的傾向に向かふことを暗示する。男は兩手の棒と硬貨をバランスさせるやりかたに選択権を持つてゐるやうな樣子があり、あるひは彼は、彼の玩具の偉大な 潜在力を感知しつつあるのかもしれない。47圖のカバラ的イデオグラムはアレフに基づいてをり、奇術師の擧措とヘブライ語の第一文字との強い類似を示してゐる。

 巡禮のへりさがり帽に似た奇妙なつばひろの帽子は實は雙紐線のフォルム、横倒しの8の字であり、しぱしば永遠性の象徴と見倣されるものである。この古代の象徴888 (圖46のやうに)一つながりになつた太陽と月の觀念に由來し、天體に關はるイメージであることを離れて對立物の調和の觀念、女性原理(月)と男性原理(太陽)の結合の觀念を示すやうになつた。これはタロットの中に繰り返し現れる觀念である。太陽と月を調和させようとする試み、心理學用語で言へぱ意識と下意識を調和させようとする試みは魔術と錬金術の背後にある目的であり、從つてまたタロットの關心事でもある。この目的の成就の象徴が、結ぴ合わされた太陽と月であり、永遠性、永遠の生命、惑星の運動の影響を受けない生命を象徴すると考へられる。われわれの奇術師は天地の閒に立つて四方八方から放射された諸力の不協和音を内に孕んでゐる。(彼の衣装は多色であるが、支配的な色は赤であり、それは地の領域よりも天上の領域での能動性を暗示する。)彼の上方には 永遠の生の約束があり、一方下方では安ぴかの玩具が彼の注意を引き付けてゐるのである。

 この最初のカードは「占星學的カード群」のひとつであり、雙子座に關連づけられている。カドウケウス(圖49)とメルクリウス(水星)の標識(圖50)を想起させるこのカードの構造からもこの關連が見てとれる。水星は雙子座の守護星である。メルクリウスの三つ組の標識のやうに、このカードは三つの主要部に分割される。テーブルの天板によつて區切られる部分によつてカードの下部が一種の歪んだ方形を形成し、テーブルの脚と、男の脚が地を踏みしめてゐる。

 第二の部分は中央部のそれであり、まんじ(圖48)に似たあの奇妙な身振りをなす腕に占められてをり、地を指す腕と天を指す腕からなつてゐる。地を指す手が圓形のもの( 硬貨であれ魔法の圓盤であれ)を持ち、天を指す手が棒を持つてゐるのは偶然ではありえない。圓は天の象徴であり、棒は十字の一部であり從つて物質性の象徴だからである(圖 42)。ここに傳達されてゐる觀念は、天上的な諸力はそれ自身のうちに地の性質を含み 持ち、一方物質的な性質は必ず天上の要素を含有し、從つて何物も他と完全には分割されないといふことである。この點で、おたがひの對立物の種子をはらんだ諸力のまんじ状の運動は、陰と陽の圓形の象徴[太極圖]を想起させる。(圖52)黒く描かれた陰が白い陽の點を含み、陽は陰の黒い點を含んでゐる。この陽の白い點は奇術師の低い方の手に握られた圓に對應する。黒い陰の點は奇術師の高い方の手に握られた棒(物質性)の對應物である。男の兩腕がこの觀念を表すのに使はれねばならなかつたことにはかなりの重要性がある。なぜなら雙子座自體が兩腕を支配するとされてをり、またまんじ状の運動は永遠に運動する輪を暗示し、これもまた雙子座に關連づけられてゐるのである。

 カードの第三の部分は頭部に當たる。その頭部は表面的にはさかさまの三日月を載せてゐるやうに見え、メルクリウスの標識の「靈魂をはこぷ」三日月の全くのヴァリアントであるやうに見える。實は、すでに見たやうに、知性の座である頭部(それは雙子座の領域であるとともにメルクリウスの領域である)に載せられたこの大きな8の字型の帽子は永遠性を表してゐる。この帽子は大アルカナのなかでもう一度、第十一のカード"力"-牡羊座に結びつけられてゐる-に現れるが、その時は女性の頭部に載せられてゐる。(圖137)

 カードのこの三つの部分への分割は、したがつて、メルクリウスの象徴(圖50)の三位一體に照應する。メルクリウスの標識はそれ自體が三つの部分-十字、圓、半圓(圖49)-からなり、明らかに大地、太陽、月に結びついてゐる。(圖73參照)この注目すべき圖像は、自分自身と不在の觀客に向かつて、おのれの運命を弄んでいて、彼の周囲の天と地の諸力のドラマには氣づいてゐない「萬人の姿である奇術師」の頑迷なイメージなのである。カードの下半分には、テーブル、奇術師の玩具類、地面、椅子の脚が含まれ、それらの閒にある大地の状態を表象してゐる。大地それ自體はほとんど不毛だが、草のおかしなかたちの新芽が、そこにさえも潜在的な成長が、ちょうど安ぴか玩具のなかの潜在力と同樣に、存在することを示してゐる。テーブルの四角の天板は大地の觀念を確認し、(25頁參照)見えてゐる三本のテーブルの脚は(四番目の脚はどこにあるのか?どのような遠近法によつても四番目の脚が見えてゐるはずである)物質世界に基礎づけられた‘ 三の法’全生命に浸透してゐる創造的三幅對を示してゐる。全體のイメージはパラケルススの、天と地の中閒點としての人閒の觀念の視覺的な對應物である。すなわち、人閒は大地の産物であり彼の脚は地をしつかり踏みしめてゐる。だが彼はまた天の産物でもあり彼 の頭部は永遠性の天上的象徴の中に挿し入れられてゐる。-だが、もちろん、奇術師は彼 の偉大さ、彼の起源、あるひは彼の運命に氣づかないのである。太陽が頭上を、大地が足下に運行するなかで、彼は悠揚せまらず馬鹿げたちつぽけなトリックと幻影で、自分や他人を樂しませてゐる。彼が安ぴか玩具で芝居がかつた奇術にふけることを止めて、正しく 世界を見さえすれば、彼は何になることができるのか氣づかない。人閒とは天地の閒の緊張であり、彼に生命を與へ、彼の存在を不朽のものとし、また彼に死をもたらすであろう偉大な諸力、生命の潜在力を忘却してゐるのである。-今や、奇術師は、あたかもタロット・カードが約束する靈的な冒險に我知らず備えるかのやうに、彼の祝福の身振りのうちで躊躇してゐるかのやうに感ぜられないだらうか。

"奇術師"が定型的な占法のなかで現れたとき、それは常に變化、とりわけ態度の變化が求められてゐることを示す。これまでの分析で擧げたどの觀念の結びつきも、定型的な占法において立てられた個々の設問に關連させることができる。このカードのばらばらの配色は、質問者にとつての‘物事を纏めあげる’ことの必要、彼自身、あるひは彼の状況を組織し、新しいやりかたで彼の態度を檢討することの必要を意味する。なぜ奇術師は觀客 に向かつて演技するやう強いられるやうに感ずるのか、そして觀客は誰なのか?これは問題に直面した全てのひとが問はねばならない問ひである。質問者が女性である場合のリーディングにおいてはこのカードはときに質問者にとつて完全には滿足できない男性、‘存在の質’において何かが欠けてゐる者、結局のところ信頼できない者、あるひは責任を果たすことのできない者を意味するだらう。

 傳統的な占術によるこのカードの解釋では、奇術師は‘行動の開始’、辧舌、行動、あるいは書き言葉におけるメルクリウス的な衝動を意味してゐる。それは、危險をおかす能力、さもなくば注意力、説得力のある雄辧を意味する。反對に、山師、憶病、嘘も意味する。深いレヴェルにおいては、反對物の一致、日常生活の枠組のなかでの靈的試練としての自己の發展、自己の靈的状態に對する人閒の盲目性、といつたことを内包する哲學的含意のどれもがリーディングで扱はれる際のこのカードに結び付けることができる。雙數的 な雙子座の十二宮サインの研究は、このカードの正しい理解にとつて基本的なものである。

 The Juggler(奇術師)は、時にMinstrel,Wizard,Magus,Mountebank,Gypsy Master,そしてまれに、Pagatと呼ばれる。この最後のPagatは運命を意味するBagar,Paghead,Gad に由來するらしい。またときにこのカードはBagatto,つまり靴の修理道具で散らかつたテーブル上の品々と呼ばれてゐる。